「ダイアローグ・ギルティ」 そのI


第5章

 〈神谷瑞樹と高瀬楓・高瀬紅葉〉
 中に入ってきた高瀬は、サングラスの向こうからじっと私を見つめた。まるで化物でも見るような、強ばった表情だった。
「‥‥何故また来たんだ?」
「分からないから」
「何がだ?」
「何って‥‥どうすればいいのか、よ‥‥」
 思わず涙ぐむ私の前に高瀬が立て膝をつく。そして、涙を拭ってくれた。優しい男だ。だから迷ってしまう。
「あなたの事、嫌いじゃない。けど、あなたを愛してしまったらあの人を裏切ってしまう気がして‥‥」
「彼も言ってた。君には幸せになってほしいと。死に行く事は幸せじゃない」
「分かってる。分かってるわ。でも‥‥でも‥‥」
 子供のように泣きじゃくる。分かってる。分かっているのだ。でも、まだ恐いのだ。ずっと無いと思っていた前への道。それを歩く事が出来るのか、分からない。高瀬は涙を拭い続けてくれる。その顔は悲壮に満ちている。
「言いたい事は全て言った。後は、あなたが決めてくれ」
「‥‥」
「でも、大丈夫だ。君は死なない。ここでは死なない。だから、ゆっくりと考えるといい」
 高瀬はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。私は泣くのをやめ、彼を見上げた。彼の顔には一つの決意が見えた。
「何を‥‥考えているの?」
「全てを終わらせる」
 言ってる意味が分からなかった。終わらせる? 何をだろう。
 高瀬が黙っていると、開けっ放しにされた扉から今回の対戦相手が顔を出した。正直、ゲームなどもうどうでもよかった。だが、見えた顔を見て、私は唖然としてしまった。八、九歳くらいの少女だった。しかも、二人いた。
「‥‥二人?」
「今回に限って特別ルールだ。三人でやってもらう」
 高瀬が口早に答えた。
 少女は二人共、似たような顔をしている。大きな瞳と闇の中でも茶色く輝く瑞々しい髪の毛が印象的な少女達。一人は髪の毛が背中を隠す程に長く、そしてもう一人は肩にもかからない程短かった。それ以外に二人を見分ける要素は無かった。誰がどう見ても、姉妹だった。
 二人は寄り添い合い、怯えた顔をしている。生まれたばかりの子猫のようだった。私は彼女達を横目に見ながら、高瀬のスーツの端を突く。
「‥‥どういう事なの?」
「今までは一対一だったが、今回だけは違う。三人で三角形の形になって時計周りに順番が回る。勝者は一人だ」
 高瀬の彼女達を見る目は心配そのものだ。その時、髪の毛の長い方の少女が高瀬に駆け寄り、腰に抱きついた。
「和也お兄ちゃん、恐い‥‥」
「大丈夫だ、紅葉。何の心配もしなくていい。俺が助けてあげるから」
 高瀬は紅葉と呼んだ少女の頭を丁寧に撫でる。紅葉は高瀬の腹に顔を押し付け、泣き始める。それは私にとっては異様な光景だった。
 私は瞬きをするのも忘れ、その光景に見入っていた。
「その子達、誰なの?」
 娘。まず最初に思い浮かんだ言葉がそれだった。悲しみの表情を見せる高瀬と、そんな彼に泣き付く少女。こんな光景は初めてだった。
 高瀬は紅葉の頭を丁寧に撫でる。父親が娘に向ける眼差しだった。
「私の姉の子だ。髪の毛が短い方が姉の楓、長い方が妹の紅葉だ。姉はもう死んでいない。だから、私が養っている」
「父親は?」
 そう聞くと、高瀬の手が止まる。髪の毛の短い少女、楓が私の顔をじっと見ている。
「いなくなっちゃったの」
 私は高瀬に聞いたつもりだったが、答えてくれたのは楓だった。言葉の節々が震えていた。
「あっ‥‥ごめんなさい」
「謝らなくてもいいわ」
 そう言いながらも、楓の顔色は良くなかった。
 高瀬が跪くと、楓も高瀬に抱きついてくる。その光景は本物の親子と言っても何ら不思議は無かった。
「‥‥何でその子達がゲームに?」
 彼女達が自分で進んでゲームに参加したようには見えない。怯えているし、第一高瀬が彼女達をゲームに出させる理由が分からない。貧困? 考えにくい。
 高瀬は二人の頭を胸に抱き寄せる。
「このゲームの主催者は新宮寺という男だ。彼が彼女達を参加させた」
「何故なの?」
「彼は、新宮寺は彼女達を恨んでいる」
「だからどうして恨んでいるの?」
「‥‥すまない。これ以上は言えない」
 高瀬の声が消えていく。でも、私は納得出来なかった。
「ずるいわ。また、ゲームで迷っちゃうじゃない」
「大丈夫だ。あなたは死なないのだから」
 毅然とした態度で高瀬は答えた。
 何も分からなかった。だが、高瀬は彼女達を愛し、彼女達も高瀬の事を愛しているという事だけは分かった。いつも冷淡な高瀬もちゃんと誰かに愛されていたのだな、と少しだけ彼が羨まやしく思えた。
 私もまた、誰かに愛される事ができるのだろうか‥‥。
 高瀬は二人をゆっくりと引き離し、スーツを着直し、サングラスを取った。久しぶりに生の瞳を見た。その瞳には強い眼光が宿っていた。
「俺はもう行く。でもこれだけは言っておく。俺は三人共絶対に殺させない」
「さっきも言ってたわね、助けるって。どういう事なの?」
「そのままの意味だ。誰も殺させない。俺はゲーム自体を終わりにさせる」
 その言葉は自信に満ち溢れていた。明らかに、前会った高瀬とは違っていた。
「その子達の為?」
「それと、あなたと新宮寺の為だ」
「あなたとその新宮寺との関係は何なの?」
 そう聞くと、高瀬の顔がまた暗くなる。今日の高瀬は本当によく表情が変わる。
「友人だ。私の最初のな」
「そうなんだ‥‥」
 細かく聞こうとは思わなかった。どうせ教えてくれないだろうし、これ以上は聞いてはいけないような気がした。彼も私と真一の事については詳しく知ろうとしない。お互い、触れてはいけない部分はある。今はそれだけ分かれば十分だった。
「でも、何だかいきなりな話に聞こえるわ」
「そうでもない。遅いくらいだ」
「そうかしら?」
「もっと早く、あなたを救おうと思っていればよかった。そう思っていれば、楓と紅葉がここにいる事も無かった」
「‥‥」
 今の高瀬は本当に饒舌だ。それが私の心を鈍らせる。もういない真一に問いたくなる。彼についていっていいのか、と。
「神谷、私はもう細かい事は言わない。ただもう一度だけ言う。あの男はあなたに幸せになってほしいと言った。それは死に行く事じゃない」
「‥‥」
「そして、少なくともあのゲームであなたは死なない。死なせない」
 高瀬が私の顎を持ち上げ、少し乱暴に口付けした。紅葉と楓が小さく悲鳴を上げ、頬を染めた。
「‥‥」
 彼の唇を感じながら、心が崩れ落ちそうになるを感じた。なんてたくましいんだろう。迷って自分の居場所さえ見つからない私に、今の彼はあまりにも輝かしい。
「どうして‥‥私なんかを?」
「あなたがここに来てから、ずっと見てきた。最初のあなたは頭がおかしかった。でも、今は違う。冷静に死を目指している。それが耐えられない。あなたはもう苦しむ必要なんか無い。もう十分苦しんだ」
「‥‥」
「もういいと、思うんだ」
「‥‥」
 もういい、か。誰がそれを決めるのだろう。私か? 高瀬か? 分からない。
「もうちょっとだけ‥‥待っててよ」
「ずっと、待ってる」
 高瀬は私の頭を撫でると、扉に向かった。
「楓、紅葉。しばらくの間だけ我慢してくれ」
「うん。待ってる」
 楓は力強く首肯いた。
「‥‥お父さんみたいに、出ていかないでね」
 紅葉は両手を胸に抱き、祈るように呟いた。高瀬はそんな二人に、似合わないキザな笑顔を見せた。
「当たり前さ」
 そう言って、高瀬は部屋から出ていった。これが最後になりたくない。それだけ思った。
 紅葉と楓は互いの顔を見合わせると、私の両隣に腰掛けた。二人共、高瀬がいなくなった事で若干怯えていたが、少なくとも私を恐がってはいなかった。
 何とも不思議な気分だった。今まで若い人と戦った事はあった。でも、こんなに若い子は初めてだった。しかも二人だ。どんな戦いになるのか、想像も出来ない。もっとも、高瀬の言葉が真実ならば三人共生き残れるらしいが。
「あの‥‥」
 紅葉が恐る恐る声をかける。
「そんなに恐がらなくてもいいわ」
 そう優しく言うと、紅葉は小さな笑顔を見せ、私との距離を縮めた。何となく、彼女の顔は真一の顔に似ていると思った。
「‥‥神谷瑞樹さん、ですよね?」
「そうよ。高瀬に教えてもらったの?」
「はい。いつも話してくれるんで、覚えちゃいました」
「いつも?」
「はい」
 紅葉は恥ずかしそうに俯く。私は本当に愛されているようだ。嬉しいはずなのに、素直に喜べないのは、私が腐っているからだろう。
「どんな事、言ってたの?」
 訊ねると、楓が笑って答えてくれる。
「好きだって言ってましたよ」
「それは知ってるでしょ? あなた達も」
「はい‥‥」
 ポッと頬を染める楓。さっきの光景を思い出しているのだろう。
 とてもゲーム前の会話とは思えなかった。こんなに和やかでいいのだろうか。高瀬の言った終わりにするという言葉。二人はそれを信じているのだろう。
 私はまだ完全に信じていない。何をするのか分からないし、もしもゲームの存在が無くなってしまったら、私はどうすればいいのか分からない。このまま中途半端な気持ちだったら路頭に迷ってしまう。
 でも、さっきの高瀬の行動で私の心は確実に揺れ動いていた。もっと彼の事が知りたい。私に口付けてくれた人はどんな人なのか、もっと知りたかった。
「普段の高瀬ってどうなの? 私、ここの彼しか知らないから」
 そう訊ねると、紅葉がちょっと嬉しそうに頬を緩める。
「凄く優しいです。本当の子供じゃないのに、一緒に買い物に行ってくれたりするんです。まだ半年くらいしか経ってないのに」
「‥‥」
 半年か。真一が死んだ時と同じ頃だ。私はその間真一の事だけを考え、死のうと決意した。彼女達は高瀬という新しい父親に迎えられ、新しい人生を歩もうとしていた。私とは正反対だ。
「いつも一緒に寝てるんです。川の字になって」
「そうなんだ。想像出来ないわ」
「一回寝てみれば簡単です」
「寝てみれば‥‥ね」
 もう一度寝てるのよ、とは言わなかった。彼女達の言っている意味とは少し違うからだ。
「好きなのね、高瀬が」
「もちろんです」
 高瀬を語る時、この子達はとても嬉しそうな顔をする。実の親ではない事を知っているのに、それでも笑顔で語る。幼いゆえに深く考えてないだけなのか、幼いけれども何もかも理解しているからなのか。
「高瀬お兄ちゃん、神谷さんには生きてて欲しいって言ってました」
「それも知ってるわ」
「‥‥死にませんよね?」
「‥‥」
 子供に死にませんよね、と聞かれる私。どうやら、この子達は私が死にたがっている事も知っているらしい。滑稽だ。何も知らない子供に心配されるなんて。でも、それでも答えられない。
「だって、死んじゃったら高瀬お兄ちゃん、凄く悲しみますよ」
「‥‥それも、知ってる」
 あれほど高瀬に言われたのに、それでもまだはっきりと答えられない。それほど、私にとって真一という存在は大きかった。愛し合った日々、体を重ね合わせた日々、あれを忘れる事は出来ない。あの時間程、至福だと思った時は無い。あの時間を与えてくれたお礼として、私も彼の元へ行きたかった。
 でも、もう二度とあの時間がやってこないのなら、真一が私の死を望まないのなら、新しい道を歩くしかない。前までは死に行く事以外の道が見えなかった。目が曇っていた。でも、今は見える。そしてその道はすぐ目の前にある。後はただ、足を前に出すだけ。その勇気が欲しい。あと少しなのだ。
 私が黙っていると、紅葉が楓の顔を見た。
「‥‥お姉ちゃん。お母さんの事、言っていい?」
「えっ?」
「言った方がいいと思うんだ」
「‥‥そうだね」 
 楓は少し迷っていたが、しばらくして首を縦に振った。
 紅葉は小さく首肯いてから私を見上げた。何かを決意したような顔をしていた。
「私達のお母さん、高瀬お兄ちゃんのお姉さんは、このゲームに出て死んじゃったんです」
「‥‥えっ?」
 一瞬、自分の耳を疑ってしまった。高瀬の姉がこのゲームで死んだ? 初耳だった。私の頭が急速に過去を思い出す。今までに戦った人の中で高瀬の姉らしき人物はいただろうか、と。
「‥‥」
 いない。年頃の女性と戦った事はあったが、高瀬の姉らしき人物は浮かんでこない。高瀬の姉なら顔が似ているはずだ。私の記憶が確かならば、そんな人物はいない。
「神谷さんが出る前だって聞いてますから、そんな顔しなくていいですよ」
 紅葉が私の手の平をさする。私は動悸がおさまっていくのを感じた。その事自体はいい事ではないのに、心のどこかでホッとしていた。
「どうしてその人はこのゲームに?」
「‥‥お父さんに借金があったんです。その理由でお父さんは出ていって‥‥。それでお母さんはその借金を無くそうとしてこのゲームに出たんです」
「‥‥」
 言葉が無かった。最初の頃の私とまったく同じ理由だ。こんな偶然があるだろうか。いや、このゲームに出る人間のほとんどは金に困っている。同じ理由の人がいたとしてもおかしくない。でも、それにしても高瀬の姉が昔の私と同じ理由でこのゲームに出ていたなんて信じられなかった。
 紅葉の表情は暗い。実の母親の顛末を語っているのだ。そうもなるだろう。それでも、
語り続けてくれる。
「それでお母さんは死んじゃって‥‥でも、お父さんは戻ってこなくって‥‥」
 戻ってこなかった。つまり、借金を背負ったままでは二人を養えないとでも思ったのだろう。そして、身寄りの無くなった二人を高瀬が引き取った。
 そこまで言うと、紅葉は俯き、口を閉ざしてしまった。辛かっただろう。私は彼女の柔らかい髪の毛を丁寧に撫でてやった。さっき高瀬がそうしたように。
「‥‥」
 高瀬がどうしてあんなにまで私を愛してくれるのか、分かった気がした。姉と似ていたからだ。彼の姉は死んでしまった。でも、私はまだ生きている。だから、姉への想いを私に重ねている。果たせぬ想いを、私で果たそうとしている。
「ねえ、高瀬が何をする気なのか、知ってる?」
「いえ、何にも教えてくれなかったです。でも、絶対に助けてくれるって信じてます」
 何の確証も無いのに、平然と言う楓。愛ゆえ、とでも言えばいいのだろうか。いや、そんな形式ぶったものではないだろう。ただ、信頼してるだけなのだ。
「どうして、そんなに簡単に言えてしまうの?」
「えっ? 何でって言われても‥‥高瀬さん、私達に嘘ついた事なんて無いし」
 楓は頭をかく。その仕草は、妹に似て可愛いものだった。
 嘘をついた事など無い、か。考えてみれば私にも嘘は言っていない。
 愛していると言った事も嘘ではないのなら、信じてついていきたい。もう、自分に嘘をつきたくない。死ぬ事は懺悔だ、という嘘を。
「神谷さんは、高瀬さんの言う事が信じられないんですか?」
 楓がわずかに身を乗り出す。
「そういうわけじゃないけど‥‥」
「大丈夫です」
 そう言って、楓が私の手を強く握った。もう片方の手を紅葉が握る。暖かい手だった。
「高瀬さんはあなたの事も、私達の事も大好きなんですから」
「‥‥」
「私達もあなたの事、好きです。だって、高瀬さんが好きな人なんですもの」
 二人の眼差しに濁りは無かった。
「‥‥」
 この時、思った。私も生きてみよう、と。
 高瀬とこの子達と生きてみたい。私を愛してくれる彼らと。
 あの時、真一が死んでしまったあの時から、私は愛される事に怯えていた。誰かを愛してしまったら、誰かに愛されてしまったら真一の事を忘れてしまうのではないか、と。
 でも、違った。誰かに愛されても、忘れる事なんて無い。また生きてみたいと思うだけだったのだ。だって今の私は真一の事を忘れる事無く、高瀬達と同じ道を歩みたいと願っているのだから。
 忘れない。心に残したまま生きていく。罪も喜びも全部胸に抱えたまま生きていく。昔から分かっていて、でも恐くて出来なかった事が、今ようやく形になって掴めたような気がした。
 あまりにも遅すぎたけれど、でも、やっと掴めた。
「‥‥ありがとうね」
 言ってから、涙声だという事に気づいた。楓が眉をひそめる。
「あの、私何か嫌な事言いました?」
「そうじゃないのよ。やっと、決心がついたのよ」
 二人を抱き締める。その間も涙が零れ続けた。


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